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4 従順な暴れ馬

last update Última actualización: 2025-09-06 05:22:59

 その翌日――。僕はぼんやりした頭を無理やり覚まそうと、とびきり冷たい水で顔を洗った。まだ頭がうまく働かない。昨晩の記憶が、ハーヴィーとの時間が、現実だとはとても思えなくて、僕はじっと鏡の向こうの、寝ぐせ頭で寝ぼけまなこ眼な自分の顔を見つめた。

 夜更けの物音。青白く光り輝くスノーケルピーの馬房ばぼうと、そこに現れたハーヴィー。まるで不思議な夢を見ていたかのようだ。ただし――。

 夢……だとしても、すごく鮮明に覚えてる。ハーヴィーの温もりも、声も。

 ぼんやりしたままの頭でぐるりと部屋の中を見渡し、頭をく。ふと、白いシーツの上にキラリと光る糸のようなものを見つけた。僕はなにげなくそれを指先で摘まんで、日の光にかざしてみる。まるで絹糸のように美しいそれは、長い灰色の馬の毛だった。恐らく、ハーヴィーのしっぽの毛だ。

 やっぱり、昨日のことは夢じゃない。あれ――……でも、ちょっと待てよ。僕はあのとき、確か……。

 昨夜はあまりの出来事に驚いたり、呆気あっけに取られるばかりだった。そのせいですっかり忘れていたが、確か――馬房ばぼうでハーヴィーを見つけたとき、彼は僕にキスをしたのではなかったか。

 そうだ……。僕、あのとき……、ハーヴィーと、キス――……。

 思わず、僕は手で口をおおった。たちまち頬が熱くなっていく。昨晩は気にめなかったことだが、冷静になって思い返すとひどく恥ずかしい。そもそも、僕は誰かとキスをしたことなど一度もなかったので、あれがファーストキスでもあるのだ。

 妖精とファーストキスなんて……。

 全く信じられない。昨夜、自分の身に起こったことは、なにからなにまで、あまりに奇想天外だった。しかし指先で、唇をなぞりながら思う。きっとあのキスに特別な意味があったわけではないのだろう――と。ハーヴィーは妖精といえど、一応は男であるようだし、あれは想いを伝えるようなものでもなかった気がする。僕にとっては強烈な思い出として記憶に残っているが、ただ、それだけだ。

 妖精にとって、キスは、挨拶あいさつみたいなもんなのかもな……。

 ハーヴィーの灰色の毛をもう一度、日の光にかざし、笑みをこぼす。なにもかも、夢のようで夢ではない。おかしな馬の妖精に出会い、なつかれてしまったのは事実。そして、彼を助ける
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